ひめゆりの塔とは?南部に訪れたら学んで欲しい沖縄太平洋戦争の歴史

1. 令和の時代だからこそ「ひめゆりの塔」で戦争と向き合う
2. 戦争は悲惨で怖いから見たくない?でも沖縄戦から逃げないで
3. 改めて学ぼぶ・ひめゆり学徒隊とは?
4. 物資不足の中で建立された「ひめゆりの塔」が小さい理由
5. 平和祈念資料館の展示室・227人の写真
6. 自決した跡も!旧海軍壕で壕に入って平和を思う
7. 沖縄南部戦の地で平和への思いを令和へ受け継ぐ
透明感のある青い海と青い空が沖縄なら、太平洋戦争で唯一地上戦が行われたのも沖縄です。
戦争に関する話は悲惨だから見たくないし、聞きたくない。
怖いから沖縄を観光する時も行かない。
時代が令和になり、戦争を知らない若者が増える中、どうやって向き合っていいかわからないという声が聞かれます。
しかし、戦争から目を背けては、本当の沖縄を知ることはできません。
「ひめゆりの塔」をご存じの方も多いのではないでしょうか。
「ひめゆり学徒隊」の話は映画やミュージカル、書籍、漫画などに取り上げられ、沖縄の悲しい歴史を今に伝えています。
沖縄県糸満市にある「ひめゆりの塔」「ひめゆり平和祈念資料館」、那覇市と豊見城市の市境に伸びる「旧海軍司令部壕」を訪れ、教科書や映画では知り得ない沖縄の太平洋戦争の歴史を体感しました。
1. 令和の時代だからこそ「ひめゆりの塔」で戦争と向き合う
実は中学の修学旅行で広島市の原爆資料館を訪れた時、ショックが強すぎて、記憶が飛んでしまいました。
皆と一緒に行動したから、館内を歩いているはずですが、何を見たのか全く覚えていない。
ただ「戦争は怖い。二度としてはいけない」という思いを強く持ったことだけ覚えています。
小説「ひめゆりの塔」(石野径一郎著)を読んだのも中学生でした。
パックリと開き、血が噴き出している傷口に豚の脂を塗ったところ、血が止まった、という個所をなぜか記憶しています。
沖縄本島南部には、ひめゆり学徒隊の御霊を慰め、平和を願う「ひめゆりの塔」をはじめ、「平和祈念公園」「旧海軍司令部壕」「喜屋武岬」など、戦争にまつわる施設や景勝地が数多くあります。
米軍の激しい進行に押され、日本陸軍やひめゆり学徒隊が、南下した場所を時系列的に訪れることもできます。
2. 戦争は悲惨で怖いから見たくない?でも沖縄戦から逃げないで
太平洋戦争の末期の1945年3月、沖縄本島に米軍が上陸。
国内唯一の地上戦となる「沖縄戦」が始まりました。
約20万人の尊い命が犠牲となった「沖縄戦」の大きな特徴は、戦争に何の関係のない民間人が戦争に駆り出されたことです。
沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の15歳から19歳の女子生徒と教師たち合計224人も看護要員して動員されました。
のちの「ひめゆり学徒隊」です。
配置された場所は南風原(はえばる)沖縄陸軍病院。
戦争の最前線に連れていかれ、日本陸軍の兵士たちと行動を共にしました。
薬や医療設備のない過酷な環境の中、懸命に負傷兵の治療を行います。
麻酔のない中で足を切断する、死体を埋葬することも少女たちの仕事でした。
3. 改めて学ぶ・ひめゆり学徒隊とは?
怒涛のように攻め寄せる米軍から逃げるように「ひめゆり学徒隊」は日本軍とともに南下を始め、2か月余りに渡って各地の壕を転々とします。
回復の見込みのない兵士や友人を置き去りにし、南部の伊原・山城周辺の壕に隠れます。
戦局が絶望的になった6月18日、突然解散命令が出され、避難していた防空壕から放り出されました。
壕から砲弾が飛び交う戦上に出ることは死を意味します。
少女たちの絶望は計り知れません。
解散命令が出された数日間に、少女たちの大半が亡くなりました。
「ひめゆりの塔」は、多くのひめゆり学徒が亡くなった伊原第三外科壕の上に建てられています。
「ひめゆり」の名前の由来は、沖縄県立第一高女の学校広報誌が「乙姫」、沖縄師範学校が「白百合」だったことから名づけられたそうです。
4. 物資不足の中で建立された「ひめゆりの塔」が小さい理由
敷地は静寂に包まれていました。
70 年以上前に、山の姿がなくなるほど砲弾が飛び交い、激しい戦いが繰り広げられたのが嘘のようです。
「ひめゆりの塔」を取り囲むように、至る所に鎮魂の石碑があり、人々が祈りを捧げています。
白くて横長の石碑には、犠牲になった女子生徒と教師の名前が刻まれています。
その右手前にあるのが「ひめゆりの塔」。
高さは 1 メートルもないくらいの小さい石碑です。
それもそのはず、建立されたのは終戦の翌年の 1946 年で、米軍統治下だったことが一番の理由です。
また物資難で、立派な石碑を立てられなかったようです。
5. 平和祈念資料館の展示室・227人の写真
「ひめゆりの塔」から左奥へ進むと、「ひめゆり平和祈念資料館」があります。
沖縄戦を後世に伝えるために 1989年に建てられ、2019年で開館30周年を迎えます。
展示室の壁一面に亡くなった女子生徒や教師227人、一人一人の遺影が人柄を伝えるエピソードと最期の場所を記してある「鎮魂」コーナーです。
時間に余裕がある方は、ゆっくりご覧ください。
伊原第三外科壕の内部の様子を底から見上げたように再現したジオラマも展示されており、当時の過酷な状況を伺うことができます。
少女たちは、入り口から梯子を使って、壕の内部に入っていました。
高さは約14メートルあったようです。
壕の中には少女たちのほか、病院関係者なども身を潜めていました。
解散命令のあった翌朝、ガス弾攻撃によって、壕にいた大半が亡くなりました。
敷地内のあちこちで、千羽鶴が飾られています。
全国から送られた千羽鶴で、平和への願いが込められています。
6. 自決した跡も!旧海軍壕で壕に入って平和を思う
「ひめゆりの塔」から車で約30分の距離に「旧海軍司令部壕」があります。
沖縄戦当時、日本海軍沖縄方面根拠地隊司令部が置かれていた防空壕で、450メートルの長さのうち、現在は300メートルが公開されています。
資料によると2か月足らずで作られたそうです。
1945年6月13日未明、隊を率いていた司令官大田實少将をはじめ、多くの将兵や民間人がこの壕の中で命を落としました。
司令官室、医療室、幕僚室などを見ることができるのですが、幕僚室には手りゅう弾で自決した破片の跡が残っていました。
迷路のように入り組んだ狭い空間には、多い時には約4000人の兵士が避難していたそうです。
冷たく、薄暗い壕の中で、戦争の恐ろしさを空気で感じ取りました。
7. 沖縄南部戦の地で平和への思いを令和へ受け継ぐ
戦争に関係のない民間人も巻き込まれた沖縄戦の悲劇、南へ南へと追い詰められながらも負傷した兵士を気遣う女子学生たちの心境、壕から追い出された時の絶望など、現場を訪れなければ、感じ取ることができません。
昭和、平成、令和と受け継いできた沖縄県民の平和への思いに触れてください。
怖いから、悲しくなるから、という理由で戦争から逃げないでください。
沖縄本島南部の「ひめゆりの塔」で、太平洋戦争の事実と向き合い、将来の日本の平和を考えませんか。
命の大切さ、平和への願いを再認識することでしょう。